はしまや

倉敷市指定重要文化財 楠戸家住宅

楠戸家のあゆみ

楠戸家のあゆみ

時代の荒波を乗り越え、倉敷の地で歩み続ける

楠戸家住宅が位置する標高36.8mの鶴形山の南山麓一帯はその昔、「吉備の穴海」という浅海(せんかい)の西側に位置する「阿智潟(あちがた)」と呼ばれる小さな島でした。羽柴秀吉の高松城水攻めから2年後の1584(天正12)年、岡山城主・宇喜多秀家によって酒津から早島に至る長い堤防が築かれ、その東側に大きな農地が生まれました。その頃、高梁川の沖積作用により鶴形山周辺の干潟は急速に陸地化していきました。楠戸家は新田開発した農地を利用し、現在「倉敷建築工房 楢村徹設計室」となっている場所で紺屋を営んでいました。

1642(寛永19)年、倉敷に代官所が置かれ幕府直轄領(天領)となり、干拓された陸地では塩分に強いイグサや綿花が栽培され繊維産業が発展、倉敷川周辺は多くの地主や豪商の屋敷が軒を連ねるようになりました。
1869(明治2)年、楠戸家は機織屋から反物を買い販売する呉服店を創業。隣村の羽島(当時都窪郡羽島村)出身であることから屋号を「羽島屋」に、創業者・楠戸徳吉の名前の「と」を商標としました。

呉服店が面する現本町、東町通りはかつて倉敷から東へと抜ける街道筋として商人が行き交い、職人たちが軒を連ねた場所でもあり、道しるべの石碑が現在も残っています。
右 由が山、下津井、下村、あらわず観音寺道
左 吉備津、いな里、おか山道
1891(明治24)年3月、山陽鉄道が岡山へ到達。4月に倉敷まで開通すると交通とともに商業の中心地は瀬戸内海の航路から陸上へ移り、東町通りは幹線道路として1933(昭和8)年から昭和30年代までボンネットバスが行き来していました。


1904(明治37)年「羽島屋(現はしまや)」の店先にて。写真左から3番目が米俵に座る楠戸與平(当時10歳)。米俵は大八車に乗せて路地を通り米蔵へと運ぶ。写真右端が羽島屋の小僧。反物を入れた籠を背負い行商へと出向いていた。


撮影年度不明。店の前は旧街道で攸一郎(昭和22年生)が小学生の頃はボンネット型のバスが往来していた。変わったのは店先の門灯の位置のみで、現在も当時のままの風情を残している。

商人の誇り忘れず、心を尽くして客人をもてなす

1906(明治39)年、楠戸家は倉敷の呉服店では初めての合名会社に。店名は「はしまや」に変わりました。昭和初期より京都の呉服問屋である千総、矢代仁、川島織物(現川島織物セルコン)、帯は岡慶から仕入れ、1950(昭和25)年には株式会社へ組織変更。「買い先、売り先は親族のごとくせよ」「高利は魔のすすめ」を家訓とし、同族経営で老舗の格調を守っています。

明治時代以降、文明開化により紡績産業のまちに生まれ変わった倉敷では、倉敷紡績所(現クラボウ)が国内有数の紡績会社へと成長し、社長・大原孫三郎氏が経済活動ともに社会事業や福祉事業に取り組みました。民藝運動への支援や農業研究所の設立など幅広い事業が展開され、倉敷の文化的な基礎が築かれるとともに倉敷川周辺には洋風建築のモダンな美術館や洋館が建てられました。

戦時中、多くの町が空襲を受ける中で、倉敷は幸いなことに戦火を免れ、江戸・明治・大正・昭和それぞれの時代の建物が残った状態で終戦を迎えます。孫三郎氏の長男で倉敷絹織(現クラレ)社長・大原總一郎氏は町並み保存の重要性に着目し、柳宗悦氏の指導で岡山県民藝協会を設立。1948(昭和23)年に町家再生の先駆けとなる倉敷民藝館を開館し、民藝という視点から町並みの保存を訴えました。總一郎氏と親交の深かった呉服店3代目・楠戸與平は民藝運動の普及活動を行う岡山県民藝振興株式会社の設立に協力したほか、倉敷に来訪した民芸運動関係者を楠戸家でお迎えしました。1964(昭和39)年に倉敷で開催された第2回日米民間人会議に訪れたアメリカの実業家ジョン・ロックフェラー3世夫妻や、1954(昭和29)年に「財団法人国際文化会館」が日本へ招聘し、7月6日〜8日まで倉敷を訪れたバウハウスの創立者であるドイツの建築家ヴァルター・グロピウス氏など海外からのお客様もお迎えしています。

先人が守り抜いた財産を守り、後世に伝えていく

町並み保存活動は昭和30年代後半に行政・住民主体の取り組みへと拡大し、1979(昭和54)年、「重要伝統的建造物群保存地区」として国の選定を受けるに至りました。1990(平成2)年には、倉敷美観地区の周りに建つ建築物の高さを制限する「背景保全条例」を全国に先駆けて制定しています。また、倉敷美観地区の景観保存に貢献してきた個人を表彰する「くらしきまちや賞」を制度化。1993(平成5)年に第1回表彰式が行われ、呉服店3代目・楠戸與平と4代目・年(みのる)が同時受賞しました。2人は明治期に建てられた町屋を当初の姿のまま守り抜き、總一郎氏に伴われて来宅した著名人をはじめ、見学したいと訪れる建築家志望の学生や旅行者に対して、家の中を丁寧に案内し、祖先から受け継いだ風習や文化を紹介していました。その心尽くしのもてなしや、歴史を伝えていく姿は大切に引き継いでいくべきものです。


1993(平成5)年に、店舗の前で第1回表彰式が行われ、呉服店3代目・楠戸與平と4代目・年(みのる)が同時受賞。賞状を手渡す当時の倉敷市助役の本田茂伸さん(中央)。


「くらしきまちや賞」受賞時の新聞記事。美しさを誇る倉敷の旧家として多くの客人をもてなした呉服店3代目・楠戸與平と4代目・年。

新たなる試み 広く開かれた文化財へ

1996(平成8)年、倉敷の町屋の歴史を現代に伝える建造物として楠戸家住宅(主屋の奥座敷部・米蔵・炭蔵・道具蔵・塀)は文化庁の「文化財登録原簿」に岡山県第1号として登録されました。呉服店5代目・楠戸攸一郎は「歴史ある建物をぜひ多くの方に見ていただきたい」と、米蔵をカフェ「夢空間(サロン)はしまや」に再生。5代目妻・恵子が営み、クラシックやジャズなどさまざまなジャンルのコンサートやアート作品の企画展を開催し、多くの人が訪れて交流する開かれた空間に生まれ変わりました。攸一郎は1997(平成9)年に藍蔵を「倉敷建築工房 楢村徹設計室」に再生。2002(平成14)年には主屋の店舗部・玄関部・中座敷部が倉敷市指定の重要文化財に認定されました。その後も、2004年(平成16)年に道具蔵をギャラリースペースに、2008年には北蔵をテナント用に再生するなど、歴史的建造物の趣を残しながら、時代に合わせて活用する試みを続けています。

2010(平成22)年、東町の電線地下埋設工事が完了し、歴史的景観の保全とともに外灯の灯る明るい町並みに整備されました。同年に6代目・楠戸伸太郎が、戦前に銘仙を取り扱っていた呉服店の別店舗を再生し、「くらしき 窯と南イタリア料理 はしまや」を開業。そして、「夢空間はしまや」は2022年(令和4)年3月に「atelier & salon はしまや」として、6代目妻・まゆみが新たな一歩を歩み始めました。